ある会社では、各部門の代表者が集まり、業務改善について話し合うための会議を定期的に行っています。ただし、今回は参加が強制ではなく、自由参加とすることになりました。
そこで会議の担当部署は部下に「今回は自由参加にすると決まった」と伝え、案内文の作成を任せました。部下はその言葉を受けて、社内の掲示板に「関係者は自由に御参加ください」と書いた案内を掲載しました。
しかし、案内を読んだ従業員からは、「代表者が出ればいいのか?それとも全員が参加すべきなのか?」といった声が寄せられ、対応に混乱が生じました。
「自由に御参加」という表現が、人によって異なる解釈をもたらしたのです。
担当者は部下にもっと丁寧に説明すべきだったでしょう。また、部下も「自由参加」の意味を確認し、正確に伝わる案内を作成すべきでした。
伝え方と受け取り方、どちらも大切なのです。
今日の心がけ◆相手の受け取り方を想像しましょう
いっつも思うんだけど、こいつらってわざと曲解してるだろ?
感想例
自分も指示を受ける際に、自分の解釈で安易に作業を進めてしまうことがあるので、気をつけなければいけないなと思います。これからは、何かを伝える際には、相手がどのように受け取るかを一度立ち止まって想像する癖をつけたいです。また、少しでも疑問に感じたことは、その目的や背景まで含めて質問する勇気を持つようにしたいと思います。そうすることで、認識のズレや手戻りをなくし、結果的に仕事が円滑に進むのではないかと考えました。
ISBN: 978-4122018334
書籍名: 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』
著者: 戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎
出版社: 中央公論新社
問題は個人の配慮ではなく、改めるべきは組織の構造そのものであると言ってます。
ご一読あれ。
いやいや、この例では「言葉の行き違い」という問題ではないだろう。
そもそも、各部門の代表者が集まっていた会議(当然重要な強制参加)を、いきなりろくな説明もなく自由参加にするなんてことが現実ではない。絶対にない!
担当者だって、必ず問い合わせの電話が入るような「会議の開催連絡」(ある意味爆弾通知)を大した考えもなく案内文を作成して掲示板に掲載するなんてことは絶対にない。
筆者の机上の空論で、ありもしない設定で、感想を言わせようとするって何様だ?
相手の受け取り方を想像しましょう?
エセ倫理や著者、信者たちは実践していますね。
信者たちは目下の者が何も抵抗できないと想像して、非難の言葉を浴びせたり、やりたい放題やっているのですね。実際、奴隷会員の私は何も抵抗できないと思って、やりたい放題やられました。
反撃した時は、集団の場合は倫理指導。1人の場合は・・・笑という対応でした。
また著者や信者たちは、有難い言葉=例えば今日の心がけだけに騙されて、いいように洗脳できると想像して、文章を書いたり、言葉を発しています。
しかし、自分たちが想像する相手の受け取り方が、一方的な偏りがあり過ぎて、目下の者を傷つけたり、怒りを買うことはあっても、思い通りに洗脳できません。
エセ倫理や著者、信者たちは、言葉とは真逆の自分たちの行動を見て、見透かされているということが想像できないのでしょうか。
相手の受け取り方を想像するのも大切ですが、まずはエセ倫理特有の一方的な決めつけは止めましょう。
任意か強制か。
どうみても任意でしょ?