日常生活の様々な場面で、私たちは「これは良い」「あれはダメ」などと物事のよし悪しを自分の都合で決めてしまうことがあります。
例えば食事をする時に、空腹であれば「美味しい」と感じ、満腹であればそう感じないことがあります。食べる物は同じであっても、食べる時の自分の心境や状況によって、その物の評価が変わってしまうことがあるのです。
同じようなことは、ほかの場面でも生じます。晴れの日は、「今日の仕事は順調にいきそうだ」と気分を良くし、雨の日は、「こんな日はうまくいかないかも」と消極的になることもあるでしょう。
しかし、仕事の成果を大きく左右するのは、天候や気候の状態などではなく。その日一日の仕事に向かう、私たちの心のあり方や働く姿勢なのです。
自分の体調や変えられない周囲の状況によって気持ちがブレていては、何事もうまくいきません。苦手なことに直面しても「打つ手は無限だ」という心で、進んで取り組める自分でありたいものです。
今日の心がけ◆積極的な心を養いましよう
タイトルと本文と今日の心がけがブレまくって意味が分かりません。
タイトルでは「ブレない自分になりましょう」と言っていますが、本文では「見る角度により価値観が変わる。とか、仕事の成果を左右するのは心の持ちようだ」と言っていて、最後は「積極的になろう」と〆ています。
何なんですかねコレ。
臨機応変になったり、ブレない方が良いと言ってみたり、毎回最後は根性論ですよ。
天候に左右される仕事なんか星の数ほどあるでしょうに。基本一次産業はほとんど天候に左右されまくりですよ。
5+
打つては無限だ。
なんて自惚れた精神を持っていたら、思い込んでるうちは積極的になれるかもしれませんが、手詰まりやキャパシティを迎えた時に精神的にこたえるものがあります。
そんなの側からみたら情緒不安定でブレまくる人にしか見えません。
平静心や平常心をモットーとするなら謙虚さなり、自助の精神なりなんなり、もっと養っておくべき精神性があります。
加えて、仕事の成果を決めるのは心だけでなく、実務能力がどれほどあるかということも重要です。気持ちだけではどうにもならない事が、人生では山ほどあります。
それがわからない人は無鉄砲や野蛮にも見えるでしょう。
何だこれ?
途中までは「また、人を馬鹿にして」「そんなこと分かっているよ」「大きなお世話だ」
途中から「おい大丈夫か、筆者!」「頭、逝かれたか?」
最後の1行で、う、打つ手は無限だ?と、本当に逝っちゃっている感が凄いと感じました。
明日、感想言う人、大変だね。
自分の体調が悪くて気持ちがブレているなら、半休とって休んだ方が良いでしょう。
そんな部下に対して「打つ手は無限だ」と指導する上司がいる会社なら、辞めた方が良い。
仮に何事もうまくいかないことがあったとしましょう。
気持ちがブレているからであり、その原因は自分の体調や周囲の状況だと言っている。
苦手なことが原因だと一言も言っていなかったのに・・・。
それでも仮に苦手なことが原因だったとしましょう。
何故「打つ手は無限だ」と思うだけで進んで取り組めるのか理由を知りたい。
「打つ手は無限だ」という心 = 「積極的」な心
この方程式が理解できない。
支離滅裂な文章を何とかまとめると・・・
職場で思うように進まない仕事が発生して、その原因が自分の体調であっても、周囲の状況であっても、単に苦手なことであっても、積極的な心を養い「打つ手は無限だ」と心で叫べば(結果はうまくいくかわからないけれど)気持ちはブレない(らしい)。
何だ?これ
今日のはここ最近でも特に酷い文だな!!
結局の所何が言いたいのかさっぱり分からないし、著者が1番ブレブレwww
認知症だから仕方がないかw
確かに、何を言ってんだと言う呆れた内容ですね。
農業、林業、漁業なんて、天候気候にモロ影響する訳だし、働く姿勢で何ともなる問題では無い。
体調が悪くても、ブレるなって…
血を吐きながらでも、いい仕事しろと?
根性論が一番共感できません。
今日の教養すごく良い!って思う人いるのでしょうか?
いたら普通にすごく馬鹿と思われます。
物事の良し悪しを「他人の都合」で決めろというのか?
信者の皆さん、自分の都合で決めるのが一般的に「普通」なんですよ。
食事の評価が空腹・満腹で異なるのも当たり前なんです。
評論家なら適切な評価をするために空腹でも満腹でも無い状態で評価するはずです。
何とかレストランと言うような美味しいと必ず言わなければならない番組では、出演者は空腹な状態にしたほうがきっと楽でしょう。
こんなこと書いている自分も馬鹿らしくなってきますよ。くだらない。
仕事を効率よく成果が出るように自分をベストコンディションにするようなことを今まで散々言ってきたのに、それを無視して「打つ手は無限だ」ですか。
いろんな角度から「仕事しろ」を数多く言えば仕事するだろという発想は戦前の話ですよ。
時代は令和ですから、老害信者は姥捨山に行き余生を静かに過ごしてください。
ある信者のサイトでは、良いことを言っているので特にコメントは無いと言っておきながら、時にブレてしまうことは悪いことだとは思わないそうです。
その考え方、既にブレていると思うのだけれど。www
別の信者のサイトでは、「凄く考えさせられる内容」だと言っています。
そりゃ、誰もが(本文内容が)わからないって言っているからね。
神様や仏様でも無い限り、どんなことにも動じず平穏な心を保つことは無理だとも言っています。
ちゃんと分かっているのに、信者は無駄な努力をするのでしょう?
効率よく現実的に別の方法を考えようとしないのか?
無駄な努力でも「努力をした」という事実を残せれば良いと思っているようだ。
結果より(努力した)過程があれば良しなんだね。
日常生活の様々な場面で、私たちは「これは良い」「あれはダメ」などと物事のよし悪しを自分の都合で決めてしまうことがあります。
例えば食事をする時に、空腹であれば「美味しい」と感じ、満腹であればそう感じないことがあります。
↑これ自分の都合というよりも胃とか身体の都合ですよね?
例えば、が全然例えになってないんですよ。
同じようなことは、ほかの場面でも生じます。晴れの日は、「今日の仕事は順調にいきそうだ」と気分を良くし、雨の日は、「こんな日はうまくいかないかも」と消極的になることもあるでしょう。
↑そんなこと思ったことねぇから全然共感できないし、外仕事のように天気が仕事に影響するのならそれ自分の都合じゃなくて自然の都合ってことになるだろ?気持ちで仕事に影響でるうんぬんとかじゃなくて災害とか事故とか注意するよね?普通に。
よくよく読んだら無茶苦茶だな。
働きたくないという思いはブレません。