ある教育者が、若者から「今働いている会社を辞めるべきかどうか迷っている」という相談を受けました。その教育者は、「どちらが人として美しく立派かを基準に考えてごらんなさい」と答えました。
このエピソードを知ったAさんは、今まで美しさを判断基準にすることなど、まったく考えたことがなかったので驚きました。
「これは素晴らしい判断基準だ」と感じたAさんは、それ以来、判断に迷うときは「どちらが人として美しいだろうか」と考えるようになりました。
そう考えるようになって、Aさんが気づいたのは、たいていのことはそれほど判断に迷わないということです。しかし、「自分だけが大変な思いをしたくない」「損をしたくない」という心が生じた場合には迷いがちだと感じました。
それでも、「人としてどちらが美しいか」と考えると、以前より迷うことがなくなり、行動に移せるようになりました。以降、Aさんは物事に取り組む際に、「どちらが美しいか」を判断基準の一つにしています。
今日の心がけ ◆ 自己の判断基準を持ちましょう
で、今働いている会社で働き続ける事と辞める事ではどっちが美しかったんですかねww
どっちなんですか? ねぇねぇww
妻や子供に金銭面で大変な思いをさせてまで今の会社で働き続けるか、より稼ぎが多い会社に転職して家族と余裕を持った生活をするか、「どちらが人として美しく立派かを基準に考えてごらんなさい」
感想例
正直、「どちらが美しいか」を基準に考えるのは少し抽象的すぎて、仕事の場面で本当に活かせるか自信がありませんが、自分の損得ばかり考える癖を見直すきっかけにはなると思いました。どうしても迷うときは、損得勘定をいったん脇に置いてみることで、周りとの協力関係がうまく築けるかもしれないと期待していて、少しずつでも試してみたいと思います。
ある教育者って誰だ?丸山か?
あっ、丸山は宗教家だったわ。
ちょっと何言ってるか分からない。
倫理法人会や信者の「人として美しく立派」という基準は、一般社会の常識とは、かけ離れ過ぎていますよ。例えば、活力朝礼が美しくて立派なのでしょうか?
朝礼では業務連絡を中心にする経営者と、業務連絡は適当で、この本を読ませて感想を言わせる信者は、どちらが美しくて立派なのですか?業務連絡もきちんとするならサービス残業で早く出て来いとか言っているようでは本末転倒ですよ。
朝礼中に取引先から電話があれば、朝礼を中断もしくは終了して、取引先対応にあたる経営者と、「朝礼中ですので、折り返し連絡します」と返事をさせる信者では、どちらが美しくて立派なのですか?営業時間はきちんと守る経営者と、倫理法人会の会合に参加するために営業時間を切り上げる信者は、どちらが美しくて立派なのですか?
他にもいろいろとありますが、世間一般の常識では非難されるようなことが、人として美しく立派な行為になるのが倫理法人会です。
信者にとっては、倫理法人会の活動を続ける事と倫理法人会を辞める(もしくは幽霊会員になる)事では、どっちが美しく立派な人になれる可能性があるんでしょうかね?
「人としてどちらが美しいか」
それはブラック企業だと思ったら出来るだけ早く辞める事です
各種ハラスメントやサービス労働をやってる会社で働いていても人として美しくはありません
そういう気を衒った言葉は聞いたことがある。しかし、流行らなかった。そもそも、「人として美しい」の定義を説明しないと、単にハラスメントになる。人としてどちらもブスだったらどうするんだ?