「当たり前」とは、「当然」の当て字「当前」の訓読みから生まれた言葉です。
意味は「道理から考えて、そうあるべきこと」を指します。社会人としての「当たり前」の一つとして挙げられるのが「挨拶」です。
挨拶は人間関係を築く上でとても重要なもので、挨拶によって印象や好感度、その後の信頼関係が大きく左右されます。
大きな偉業を成し遂げた人ほど、挨拶や返事、約束を守る、後始末など、基本的なことを極めることに心を注ぎました。自身を振り返り、基本ができていなければ、それを習慣にするための工夫や努力をしましょう。
但し、「当たり前」は立場や経験などによって、人それぞれに異なります。自分にとっては当たり前のことでも、他人にとってはそうでないことがあるので、「当たり前のことができていない」と、相手を責めないようにしましょう。
自己成長の手がかりとして、日常にある「当たり前」の行動を磨き、より豊かに生きたいものです。
今日の心がけ◆日々の言動を見つめ直してみましよう
日付を間違えて2回目の投稿です。申し訳ありません。
前半は、当たり前の事が出来ないと読者を責めてません?
大きな偉業を成し遂げた人が当たり前の事が出来ていたかどうかは分かりませんが、当たり前の行動を磨くってなんなんですかね。個性があったらダメなんですかね。日々の言動を見つめ直すって反発するなって事ですかね。抑圧ですかね。この本は読者の視野を狭めるために必死ですよ。
4+
句読点馬鹿も日々の文章を見直してみましょう
「当たり前」なんて話題を出すのは倫理法人会程度です。
当たり前なことは小学校の教科書にも出ているので、そちらを参考にした方が良いでしょう。
挨拶・・・ですか。好きですね。呆れます。
大きな偉業を成し遂げた人は変人が多く、挨拶や返事、約束を守ることができません。
基本的なことを極めるのは修行中のお坊さんくらいでしょう。
それから・・・当たり前なことは人によって違う?
それって「当たり前」って言わないよね。
倫理観は人によって異なるけど、それを強制的に一塊にしようとしているのが倫理法人会でしょ。何言ってるの?
日々の言動を見つめ直すのは「職場の教養」でしょう。
「当たり前」という言葉をしっかりと定義しなさい。
私の一番推しのドラマが「イチケイのカラス」です。
1時間大笑いしながら最後には気が引き締まります。
「疑うこと。アインシュタインは常識を疑い、数々の真理を導き出した。」
「ただ単に信じることは、知ることの放棄だからね」
イチケイのカラスより
ネット上では、心を揺さぶる名言の数々に「今日も良い言葉に出会えた」「刺さるなぁ」「(疑うこと~は)何事にも共通する重要事項だよな。思考停止ほど怖いことはない」との声があったそうです。
信者のブログに書き込められるのなら、そのままコピペしたいです。
また、LIAR GAMEより
「人は疑うべきだよ。
多くの人は誤解している。
『人を疑う』とは、つまり、その人間を知ろうとする行為。
『信じる』その行為は紛れもなく高尚な事だ・・・だがね、多くの人間が『信じる』の名の下にやってる行為は実は『他人を知る事の放棄』。
言い替えれば『無関心』・・・だ。」
信者のブログを読むと感じる、「職場の教養」の内容に疑問を持たないことは「知ることの放棄」、そして実は「無関心」であると言うこと。
当たり前って思考は恐ろしい。
旭川の16歳の少女が凄惨ないじめを受けて自殺したという件が話題だけれども、加害者に罪の意識が無かった。
それは何故か。
加害者側の要求を被害者側が聞くという構図は、初めの一手において相手の尊厳を踏み躙ることに抵抗は感じるのだろう。しかしその関係が当たり前のものとなってしまうと罪の意識を感じなくなってしまう。それどころか、私達にとってはそういう友達だったという発言すら出て来る。
モラハラ、パワハラ、DVに於いても同じことがいえる。異常なことに正当な理由をこじつけ、当たり前と思いこめば、良心の呵責に苛まれることがなくなるのである。
倫理法人会はこれまで倫理的教養と称して個人の尊厳を踏み躙るようなことばかりしてきた。
中には肝心な一線は越えないしっかりした信者も居るだろうが、そういうプロはともかく、各職場のリーダー達は素人である。小さな悪魔が利己心のために聖書を扱うのと同じなのだ。
やはり当たり前でないことを当たり前としてしまう空気の醸成というのは恐ろしいことなのだ。
14歳でしたね。すみません。
いじめが無いのが当たり前。
学校は子供を守って当たり前。
もうそんな当たり前が通用しない世の中なのかもしれません。
当たり前の中で失われた尊い何かを真の教養として、自分や家族の命と尊厳を守れる大人を目指さなきゃならないのかもしれません。
なんでも過剰なのは当たり前じゃない。
挨拶も最低限でいいのに、過剰にでかい声や不気味な笑顔を強要してくる。
異常性に気づけ!
間違った一方的な考えで決めつけるのは恐ろしい。
偉人変人であまり前の事を当たり前と思わず、あたり前の事をしなかった人程偉業を成し遂げている訳だし、でかい声で挨拶する事が当たり前とも思わない。
当たり前のことが出来ないと相手を責めるなと言っているくせに、日々できて当たり前、挨拶ができて当然と言っているではないか。
日々の言動を見直すべきは誰なのか?
自分ができていないのに、それを他人に指導する事ほど滑稽なことは無いです。
好きな人には挨拶をします。
しかし、人を見下したり、決めつけたり、嘘を言う人は嫌いです。
そんな人には挨拶しません。
当たり前ですよね。
挨拶を極める?
あるサイトから・・・
外資系の上司がフランス人で、挨拶は「相手の目を見てにっこりと」だそうです。
日本人は挨拶が下手で、照れ隠しからか目線を外そうとする。
後ろめたいことがあるのか?と思われるらしい。
私の意見・・・
いえいえ違います。
日本人上司への不信感からです。
尊敬できる大好きな上司なら、喜んで大きな声で挨拶します。
自分のことを最優先に考え行動している経営者に、なぜ大きな声での挨拶を強要するのか。
それを補佐する倫理法人会の言うことに疑問を持つのが非信者にとっては「当たり前」なのです。
作り笑いで会話する倫理法人会と経営者の姿をよく見かけます。
正直、声をかけたくないし、かけられたくもない。
「当たり前」ですよね。
大きな偉業を成し遂げた人ほど挨拶を極めることに心を注ぎました?
それって誰ですか?
倫理法人会は、挨拶を極めれば大きな偉業を成しとけるんだと言いたいのか?
倫理法人会が成し遂げた偉業って何ですか?
多くの人を洗脳できたと言うことですか?
・・・大きな異形(普通と違った怪しげな形)になっただけなのに。
倫理法人会が存在するという事実が当たり前だと勘違いしてませんか?
偉業を成し遂げた人ほど挨拶を極める事に心を注いだって平気で嘘を書けること自体、偉人=常識人と言う間違った事を当たり前だと勘違いしてるから、そんな馬鹿な事が言えてしまうんだよ。
もうね、何が教養なのかと、馬鹿を通り越して呆れますよ。