2020/05/31 手弁当の精神

「手弁当」の意味は、「自身で弁当を持参すること。また、弁当代を自弁すること。また、報酬を当てにせず奉仕すること」と辞書に記されています。
一般的には、ボランティアや奉仕活動に協力する時に用いられる表現です。交通費や食事代を自分で負担してでも、あることに貢献したいという精神が本来の意味に近いでしょう。
昭和三十九年の東京オリンピックは、多くの手弁当の精神で成り立ったともいえます。
同年に開通した東海道新幹線もまた、企業活動とはいえ、研究開発から建設まで、多くの手弁当によってもたらされたものでした。
また、大きな災害の際にも、多くのボランティアが手弁当で救援にかけつけ、復興への手助けをしてきました。
仕事や自分の技能を通して社会に貢献するという精神を心の片隅に置きながら、社会や地域の発展と、自己の向上に努めたいものです。

今日の心がけ◆利他の精神を発揮しましよう

会社に手弁当で貢献しろと言う意味じゃないですよねw。って言うかボランティアって利他の精神っていうより、「友人から誘われて参加する」とか半分は責任の伴わない遊び感覚で参加し、責任の伴わない作業で得た充足感を求めているのではないかと勝手に想像するわけです。一切自分が痛まない範囲で行っている、いわば遊びなんです。

本気でやるんだったら痛い位のの金額を寄付すれば良いんですが、やらないでしょ?  金額じゃなくて、自分にとって痛いが痛くないかが問題なんですよ。前沢さんが何億寄付したって痛くなければ遊びですよ。

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8 件のコメント

  • 全文ボランティアの話かと思ったら、最後の一行で仕事の話に繋げようと嫌らしい文章にまとまりました。
    言葉の選び方と組み合わせが支離滅裂だから、日曜版職場の教養文章となったのですね。

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  • 多くの手弁当の精神で成り立ってたってことは、そもそもイベント自体に無理があるってことですよね。

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  • ボランティアに期待している世論に期待している国、政府、行政に関わっている人間たちは、能無しです。
    それから比べると、倫理法人会は馬鹿で愚かで情けない小心者のヒヨッコなのかもしれないね。

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  • ボランティアはしません。見合う報酬があれば、仕事としてやります。
    たまに資材を投げ打ってボランティアやってる人もいるようですが、結局は管理人さんが言うように、痛くなく生活できるから、やってるだけなんですよ。私が資材を投げ打ったら生活できません。だからボランティアはしません。
    ハッキリ言いますが、会社で働くのも「仕事や自分の技能を通して社会に貢献するという精神」があるからではなく、お金を稼ぐためです。

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  • 「昔は〜」「東京オリンピックの頃は〜」出た、老人の口癖。スルーしてあげるのが、本人の為です。

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  • これまた酷い。

    社会や地域の発展と、自己の向上に努めたいものです
    それに伴うものは?
    難しく書いて、核心を回避し、筆者はすごいだろう?のパターン

    今日の得点2点

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  • 新幹線ができた当時は、JRなんて存在していませんでしたよね?
    国鉄、つまり、国営企業だったわけですよね。
    なんか、採算度外視で新幹線は作られた!みたいな著者の浅慮が透けてみえるのですが、
    そんなわけないですよね。
    この駄文の著者は、手弁当を労働者をただ働きさせるための都合の良い言葉程度にしか考えていないようです。

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