2018/10/09 練習と本番

Kさんの会社では、部署ごとの朝礼委員を統括する朝礼委員会があります。各部署から選ばれた委員が、朝礼活性化に向けた話し合いをする場です。
委員に選ばれたKさんは、「元気な挨拶」の練習に力を入れることを提案しました。自らが挨拶リーダーとなり、挨拶練習を毎日行ないました。
一ヵ月ほど経った頃、部長から「朝礼委員として、前向きに取り組んでくれてありがとう。ところで、挨拶練習を強化しているのは何のためかな?」と質問されました。「はい、朝礼活性化のためです」と、Kさんは答えました。
「一理あるけど、それだけでは不十分じゃないだろうか。練習と本番があるように、朝礼で元気な挨拶を練習する。その身についた挨拶を、お客様に対してはもちろん、職場や家族に対しても行なう。それが本番だろう」
さらに部長は、「誰に対しても元気な明るい挨拶ができる人格を築いていくことが大事だよ。そうした意識で取り組んでくれたら嬉しいよ」と助言しました。
部長の話に感銘したKさんは、家族にも明るい挨拶をするようになりました。

今日の心がけ◆誰にでも明るい挨拶をしましよう

1960年代の学生運動とか、革命運動をしている(と自分では思っている)連合赤軍とか日本赤軍の話やそれをモチーフにしたフィクションも結構好きで見るんですよ。

二十歳前後の人が、権力に立ち向かうことがカッコいいと思って行動している(本当は操り人形ですよ)、強いて言えば終わらない文化祭前夜のような他人の青春を見て、陶酔するんです。

当の彼らは、GHQのWGIPドストライクな年代です。そのWGIPにはかなりコミンテルンの影響があったものと思います。

(*WGIP ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムでググってみてください。 これとか。)

その影響下に出てきた革命派と呼ばれる大国の意思の末端構成員の様な彼らが幕末の志士を気取って活躍する青春が大好きです。自分があたかもその中に入ったかのような錯覚すら覚えます。

それがこの本文とどのような関係があるかと言いますと、どうもこの本文が自己批判的な感じがするんですよ。本文と言いますかこの本全体がそのように感じます。あくまで「的」な感じですよ。自己批判、分かりやすく言いますと総括です。あさま山荘事件で有名になったと「総括」です。本来の意味を失って自己批判しまくる事を言います。答えの無い答えを強いてリンチに至ります。

そして、物事を客観的に見る事が出来なくなり、自分がやっている事が正しいと思い、暴力的に平和運動をするようになるんです。

彼らはピュアだからそのような思考に陥るのだと思います。すぐに人の話に感銘して、それを他人にまで勧めるんです。

私は、文化祭前夜の青春ストーリーは好きですがその思考は嫌いです。

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2 件のコメント

  • 気持ちはよくわかります。
    映画のうる星やつら2 ビューティフルドリーマーなんかは大好物でした。

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    • 本来はその場所に留まりたいけど実際はそうは行かない。押井作品の永遠性は切ない気持ちにさせますよね。

      当時の学生運動物の映画を見ているとその気持ちが切々と伝わってきて、見終わった後はセンチな気持ちになりますw
      その当時を経験した年配の方が職場の教養の文章を書いているように私には見えるんです。

      神田川じゃありませんが、三畳一間の小さな下宿から石鹸をカタカタ言わせながら銭湯に行った世代が書いているような気がしてならないんです。

      妄想しすぎでしょうかw

      1+
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