2018/06/16 学ぶ主体

「自己啓発」という熟語に使われる「啓発」は、中国の古典にある『論語』の「憤(ふん)せずんば啓せず。俳せずんば発せず」に由来するといわれています。
「憤す」とは、知ることができずに煩悶(はんもん)すること、「啓す」は説明してわかるようにしてやること。また「俳す」は、心でわかっていても囗で表現できないこと、「発す」は、十分に言い表わすことができるように教えてやることです。
つまり「啓発」とは、物事を深く理解しようともだえ苦しみ、どう表現すればよいか散々苦しんだ者でなければ教えることはできない、という意味になります。
充実した気力と情熱がなければ、何事も進歩はなく、苦しみ悩んだ後でなければ上達はしないものです。自分を高めようという心意気もなく、努力を放棄してしまっては、向上するのは難しいでしょう。
ともすると私たちは、上達しない責任を「教え方が悪い」と、指導する者に転嫁しがちです。しかし、あくまでも、「学びの主体は学ぶ側にある」というのが、「啓発」という言葉の本当の意味なのです。

今日の心がけ◆自ら進んで学びましよう

中学、高校の部活の強さはコーチと監督によりますよね。
いくら、学ぶ側に主体があると言っても、教える側次第で全然違ってきます。
この事実をどうお考えでしょうか。

はいはい、わかってます。「教えられる側がいくら頑張っても教えられる人がやる気なかったらダメ」とか「塾に行かないで東大に行った」とかそういう極端な話はしていませんので。全体の話をしていますから。

話はそれますが、全体の話をしているのに極端な例を出してきて話を中断させるのはわざとですか? 奴らの常套手段ですか? それとも単なるバカですか?

新しいシステムを導入する時に、旧システムで出来た事が同じ様に完全に出来ないとダメですか?  新しいシステムの良いところは色々あるのに、たった一個でも出来なくなっている事があるとダメですか?  バカですか? 工夫しないんですか?

すみません。愚痴になってしまいました。

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1 個のコメント

  • あのぉ〜自己啓発なので、他人がどうのこうの関係ないんですけど。
    学びの主体は学ぶ側になる…?
    当たり前じゃないですか、自己啓発なんだから。
    筆者は自己啓発のこと、そもそも何も知らないんじゃないの?

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